夏庵`s nest

nest [nest]
1(鳥, 虫, 魚, 小動物の)巣, 巣穴.
2居心地のいい場所, 休み場所, 隠れ場所, 避難所.

<< 6/15(tue)気持ちの良い梅雨 | main | 6/18(fri)osyoga2 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | -
真珠の耳飾の少女
主演のスカーレット・ヨハンソンに惹かれて、遅まきながら観にいってしまいました。



これは、間違いなく一級品になりえた映画だとお思います。
まず撮影が素晴らしい。まさに絵画のような色彩設計!この魔術的な光と影の芸術はスクリーンでしか味わえないはずです。DVDがでたら観ようと思っている方はすぐに劇場にむかうべきです。DVDではこの作品を半分しか観ていない事になるだろうと思います。
美術も衣装も素晴らしい。
脚本もよくできています。なるべく抑えたせりふで、それぞれの人物をちゃんと描いているしサスペンスフルな構成も地味で退屈になりがちな題材を最後まで飽きさせずに見せる工夫もできている。途中、人物の感情の動きに若干の混乱もみられるけど。
演出も非常に抑制されたタッチで映画全体の雰囲気を統一感のあるものにしています。
そして主演のスカーレット・ヨハンセン。彼女の表情がなければこの映画は成り立たなかったでしょう。
でも、僕にとってこの映画は結果的には
☆☆☆
素晴らしい映画、でもどうしても物足りなさの残る映画でした。
自分にとってこの映画のないが物足りなかったのか。
この映画の主人公はグリートという少女である。基本的に映画は常に少女の視点で進行していく。
これが僕にはこの映画の最大の失敗なのではと思っている。
彼女は少なくともその物語の前半においては(全体を通して多分そうなのだが)決して主体的、自立的人物ではない。
彼女はまだほんの十代の少女であり、貧しい職人の家に育った知識も教養も人生経験もない、劇中の言葉を借りるなら「字も読めない!」人物なのである。
決して自分の主体、もしくは自我にしたがって行動できる人物ではないのである。
そうした主人公に物語りそのものを牽引できる力はないのではないか。
これは決してこの少女をその程度であると侮っていっているのではなく、そもそもそういう設定の人物なのである。
従って劇中で彼女の目から描かれる世界はほぼ「不安と戸惑い」という感情のみで描かれている。前半の描写が平坦でやや退屈なのはそのためであると思う。
やがて、彼女は絵画を通して新しい世界の見方を発見していくのだが、その過程においても彼女を支配している、ひいては映画全体を支配している感情は「不安と戸惑い」なのである。
映画自体がある種の一本調子にならざる得ない。
しかし、この映画全体を覆う不安と戸惑いの感情は中盤以降の映画のサスペンスの部分にはかなり役立っているかもしれない。
この映画のサスペンス部分を構成するのは次の二つの要素、すなわち
・彼女が画家の妻や娘の嫉妬によって生活の場を失うのではないか。
・彼女に貞操の危機が訪れるのではないか。
ということで、この二つの要素が映画を退屈にしない、物語を引っ張っていく力であるのは認めるが、勢い、この部分に映画の焦点が合いすぎてしまってないだろうか。
この映画で本来描かれるべきテーマは別のはずで、それは
「精神的に孤独な画家が使用人の少女の無垢な魂と出会い、やがて2人は美的感性を共有するようにまでなる。そして2人の魂の交歓は数々の障害を越えて、画家とモデルという形で一枚の絵の中に結実していく。」
というようなことではないのか。
この映画は少女の成長物語であると同時に、何より芸術家のエゴが描かれてなければならないはずである。
画家に対する描写があまりにおざなりというか、疎かにされている。
僕はこう思う。
この映画は、画家の視点で描かれるべきなのではなかったか。
                 *
この物語りは画家が少女を発見する物語でなければならなかった。
少女ははたして画家にその天分を発見されなければ、本当にただの使用人の少女だったに過ぎない。2人の出会いは画家の方の視点を主体にしてこそもっと饒舌にその意味を語れたはずなのではないか。
なぜそうしなかったのか。
あるいは原作の視点がそうであったのかもしれない。
あるいはこの映画の製作者たちの「良識」がそうさせたのかもしれない。
画家と使用人、これはその時代においてあきらかに差別者と被差別者の関係である。
まして、画家は家庭のある男性、相手は少女。
男性側の視点で描くことはこの映画を単にインモラルな恋愛映画に終わらせてしまうだけなのではないか。むしろ少女の視点から画家の世界を描き、少女の成長をその内側から描くことによって、この映画の現代的な意義がある。そう考えたのかもしれない。
僕は、つまらないことだな、と思う。
まあ実際にそうした意図があったどうかは解らないが、その事によって、この映画が、映画を映画として成り立たせているサムシングを失ってしまっているような気がしてならない。
それはつまりありきたりの言葉で言えば映画としての「官能性」ということ。
官能的なシーンならあったではないか、といわれるかもしれない。
たとえば、モデルになったグリートが画家の指示に従って唇を舐めるシーン。あるいは耳にピアスの穴を開けるシーン。
演技者としてのスカーレットヨハンセンは素晴らしかった。彼女の表情がなければこの映画は成り立たなかったのではないか、というのはこのことである。
しかし、映画のシーンとしては、いかにも物足りない、少女の表象的な美に対するフェティッシュと、あからさまな姦通の比喩しか意味しない、通俗的で嫌らしいだけのシーンにしか見えなかった。
何より画家がただそこにいるだけの存在でしかないのだ。
男と女がいて、そこに感情の交歓があってこそ成り立つシーンなのに、である。
この2つのシーンが何よりこの映画になにが欠けてるのか、際立たせてしまっているように思う。
画家が何より描かれていない。そしてそれゆえ、何にも知らない混沌とした魂から徐々に自我を形作っていく少女の成長も結果的に描けていないのである。

蛇足ではあるが、映画の官能性といえばやはり、ジャン・ルノワールを思い出さずにはいられない。
この映画の2人の関係が例えば「フレンチカンカン」のジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールの様であったなら、と思う。
少女の美を発見し、それを賞賛し、それに戸惑い、翻弄される男心と男の気持ちに応え、ただ追従していくようで、やがて自身の成長に気づき一個の主体的な人間として男と渡り合うようになっていく女性の自我。そうした男女の気持ちの重ねあいをほんの数分の時間しかないシーンの中で、それこそ何万語を費やす小説の言葉も足りないぐらいにあふれんばかりの豊潤さで語れるのが映画なのではなかったか。
                  *

繰り返しますが、この映画は一級品になりうる要素をもった映画だとお思います。
ですから、ため息とともに心から「惜しいんだけどねぇ」といわざる得ないのです。
もしこれからでも観たいという方がいらっしゃいましたら、「この映画は観るべき」と自信を持ってオススメします。

(追記:この映画にはもう一点作劇上のミスというか、どっかはしょっちゃったとしかおもえないところがあります。それが冒頭で若干の構成上のの混乱といった部分で、義母の心変わりの過程なんですけど。まあこれは僕の見落としの部分もあるかもしれない。
一応僕自身の覚書という事で一応書いておきます。)
| Movie | 13:48 | comments(0) | trackbacks(0)
スポンサーサイト
| - | 13:48 | - | -
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://gure720.jugem.cc/trackback/120
トラックバック
CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< November 2019 >>
PROFILE
RECOMMEND
RECOMMEND
GALAXY
GALAXY (JUGEMレビュー »)
クレイジーケンバンド, FIRE BALL, PAPA B
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
LINKS