夏庵`s nest

nest [nest]
1(鳥, 虫, 魚, 小動物の)巣, 巣穴.
2居心地のいい場所, 休み場所, 隠れ場所, 避難所.

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杉本博司ー時間の終わり
 写真に興味が出始め、もっといろいろ撮ってみたい、写真というものにもっと深く関わってみたいと思ってた矢先にそれまで使い慣れてたデジカメが壊れた。
 で、それがきっかけで、いままで押入れに眠ってた光学一眼レフカメラの存在を思い出し、ごそごそ引っ張り出してくる。
 使い方もわからないままに撮ってみたいと表に出かける。
 たまたま出会った写真展に深い感銘を受ける。

 ここまでがたかだか一週間のうちの起きた出来事となると何かしら特別な偶然性(やはりあくまで偶然性の範囲内の出来事でだからこそ)の不思議を感じないわけにはいかない。シンクロニシティとまではいわないまでも。

 偶然性、それは例えば写真という現象を構成するもっとも大きな要素であるだろうし、あまた写真はあるにしろ、それが単なる記録の意味の(あるいはその意図さえ希薄な)スナップ、何かを伝えるためのメディアとしての写真(報道的な意味合いであろうと、商業的な意味合いであろうと)、そしてアート的な意味合いの写真、それぞれにおいて、そこに明確な線引きさえ今は出来ないけれども、とりあえず写真全般として、絵画(これもあらゆる場面での絵画ということであるけれど、過去から比べればその意味は大きく広がっているるが、他の映像表現の範囲が飛躍的に拡大してしまったため、結局その占める位置は全体の割合のなかでは縮小しつつある表現)との圧倒的な違いに関しては現実に存在した一瞬をそのまま切り取り映し出すという、その場面を切り取るためにいくら撮影者が場面を設定し、光を調整し、あらゆる演出を施したところで、その切り取られる一瞬には時間というもの背負う不可避な偶然性が潜んでいる。それが写真の唯一の真実であり、それゆえの面白さであり、また逆につまらなさでもあるような気がしていた。

 デジタルカメラをいじってると、もうそれが写真というものの真実ではなくなってることをつくづく感じる。
 写された写真はデジタルのデーターになったとき、もうその時間の偶然性なんていう(今となっては)神話的な真理をあっさり放棄してしまっているのだ。
 そこにあるのは素材、もしくはただの要素でしかない。
 例えば僕の写した写真さえ、ごく拙いやり方ではあるが大概はなんらかの加工を施してある。明るさや、光のコントラストを操作し、例えば僕はそこまで出来ないけれど、そこに写っているものをまるっきりなしにしたり、あるいはそこに移ってないものを加えてたり、そんなことは簡単なことだ。

 だから絵画というものをさっきわざわざその範囲を狭く限定したけれども、写真にしろ絵画にしろもはやジャンルの意味さえ不分明であり、もちろんそこに旧態芸術としての純粋性を求めるやり方が反動的だとは決して思わないけれども、例えば写真であるなら、偶然性という定理を解体し、再構築すること、観念としての写真の純粋性をもう一度写真そのもので表現するやり方もあるということなのだ。
 
 杉本博司の作品はその一瞬を切り取る時間芸術としての写真の真実をあっさりと翻す。
 写真という媒体であらゆる映像技術を模倣(?)しながら最後は写真の純粋な部分にすとんとたどり着いていしまう。

 
 
この展覧会においての最初の展示は幾何学的なオブジェに人工的な光を当て、その光と影を精密に写し取った一連の作品である。
 そこにあるのは時間という観念の抜け落ちた純粋に抽象的なアートである。まずオブジェ(彫刻といってもいいだろう)は一番そこに永続的な時間の流れを感じさせるものであろう。そこに光の装飾を加え、写真に撮る。偶然的な意図はなるべく排除された写真と絵画と彫刻、そこにあるのはそれらが三竦みでにらみあい、かろうじて調和している偶然の一瞬のように思える。
 次の展示は、そうした静かな緊張感ではなく明らかに挑発的な意志を秘めた展示である。
 博物館に展示されたジオラマ、剥製、もしくは模型と、それを取り巻く人口的な背景によって構成された模造的な空間にさらにバーチャルな時間を与える、それはつまり写真が現実の偶然性を切り取るものだという神話ゆえに可能ないわばフェイクの作品群なのだ。
 写真に写すことによってまるで現実であるかのように見せる、といえば簡単のようだけど、実際それが驚くほど精密な写真技術ゆえに、例えば現在のデジタル技術の進歩によるバーチャルの映像よりも数倍の迫真をもって過去にありえたかもしれな一瞬を確かに切り取ってるように僕には感じられた。
 そしてこのなんとも新鮮で刺激的な驚きは最後にもう一度決定的となる。

 続く海景シリーズ。
 この展示が僕は個人的に一番好きだった。
 世界中の海の水平線を写した写真。
 海と空。
 水と大気と光。
 それしか写っていない。
 しかもその要素どれもがど不分明に混沌とした不思議な光景。海は空であり空は光であり光は大気であり大気は水のようであり水は光で光は海で・・・・・・。


 <見つけた。

  −何が。

  −永遠が

  海と溶け合う太陽。>

 その一瞬という偶然の刹那さゆえの永遠性。
 それを切り取れるのは、詩と写真しかないというのだろうか。



 国宝「松林図」を写真で模倣した「松林図」。
 三十三間堂の千手観音すべてを大パノラマにした「千手観音」
 伝統芸術と正面から対峙する近代芸術。


 続く「劇場」「建築」は反対に同時代の芸術に対するこれはかなり挑発的な写真による解体作業だ。

 「劇場」は映画という連続した時間芸術を写真という1コマ(それは映画を構成する一コマでもあり得るのだけど)で表現した作品。
 つまり映画の流れてる時間をシャッターを開きっぱなしにして撮影された作品なのである。
 そこに映し出されたのは、スクリーンから発光される(実際は投射されてるわけだが)光の洪水と、長い時間の露光の中からぼんやりと映し出される劇場の姿。もちろんこれが映画の正体であるというような乱暴な話ではなく、それはやはり、「映画」に対峙することで露わになる「写真」の正体なのである。

 「建築」は20世紀の代表的なモダン建築を無限大の倍の焦点で撮影した、つまり最大ピンボケ写真群。
 モダン建築とはいえそれはもう歴史的建築であり、いわゆる建築としては古びてしまったものを細密に写すのでなく、まるで風景に解けてしまったような陰翳のオブジェとして解体してしまうかなり乱暴な作品だ。
 本当に素晴らしい建築物は、こうしたフィルターを通したあとでもその本質を失うことはなかったとか何とか。杉本氏自身のいい訳めいた言葉が添えてありましたが。
 
 最近作という「影の色」は被写体となる空間を自らデザインし、その空間に時間によって現れる影の色を追った、写真の真の姿を突き詰めたミニマルな作品。
 それは写真の突き詰めた形かもしれないが、それが面白いとは、もちろん、限らない。

 最後の展示が「ポートレート」、肖像画を元に精密に作られた蝋人形に精巧な光を与え、細密に写し取った写真。
 それは本当に今そこに生きている人のポートレート写真にしか見えないのである。
 最初に昭和天皇の写真がある。
 へぇー天皇のポートレイトを撮ったりしてるのだと普通に思ってみると、作品のつくられた年が1999年となっている。
 そこを入り口に中に入ると16世紀の歴史上の肖像写真が当たり前のように飾られてるのである。
 単純に面白い。ショックを受ける。
 正直、観念的で哲学的な主題の小難しい写真展という側面もなくはないが、ジオラマシリーズとポートレイトシリーズのビジュアルショックを感じるだけでも観にいく価値のある写真展だと思う。
 ついでにヒルズ最上階からの東京パノラマ(もちろん夜景も。美術館も夜の十時ぐらいまで開いている!)をながめると思えば、¥1500は高くないです。

 僕も今回はかなり慌ててみてしまったので、改めてもう一度行きたいなと思っている。
 しかし、会期は1/9までだ。いくらもないぞ。
 年末年始で忙しい時期ですがお時間のある方は是非。
 
 


 
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