
縁起のいい客
吉村 昭
kmyさんの一月の読書リストのに載っていて、また母がこの方のファンで、前から薦められていたので、たまたま立ち寄った書店で平積みにされていたのを見つけ躊躇なく購入。
で、何気なく読み始めるとこれがなんとも面白く、かつ障りなくスイスイ読めてしまい、あんまりあっけなく読んでしまって、もったいないので、また読み直したりしている。
吉村昭氏の本を読むのはは実は今回がまったくの初めて。
「戦艦武蔵」という作品と歴史小説家というイメージ、これが僕の氏に対する知識のすべてであり、今年で80歳になる大家であり、また僕の生まれ育った町である吉祥寺に長くお住まいであるというのも初めて知った。
そして氏のエッセイも氏にとって大事な創作分野のひとつであり、その淡々としていながらも飄逸な語り口におそらく多くのファンがいるだろうこともこの本を読んで容易に想像できた。
事実、僕はいっぺんでファンになってしまった。
基本的にはとにかくとても真面目な語り口で、なるべく自分の感情を表さずごく簡潔に「そういうことがあった」という事実を伝えるという、ちょっと読むとまるで面白みのないような文章なのだけれど、例えば、吉村氏が以前エッセイで書いた話が、氏自身の経験であるにもかかわらず、出来すぎた話に周りから「創作だろう」と疑われ、それに対し、淡々とした語り口に平静を装いながらも、意外と真剣に、あるいはむきになって反論し、その出来事を事実であることを立証するためにさらにおかしな事実を重ねるあたりのなんともいえないおかしさ。あるいは、大真面目な語り口で若い頃にあこがれた女優や、戦中戦後の飢餓時代に食べた乾燥バナナの美味しさについて語る、なんというか、かわいらしさとしか言い様のない感じ(あえて「萌え〜」と言わさせていただこう)。また、そうした話ばかりでなくやはり戦中の体験談やご家族を亡くされた話などは、なるだけ感情を抑えた語り口であるがゆえに事実の重みが胸に迫る。僕自身が母親から子供の頃に聞かされた戦争の体験談、それはほとんど忘れていた記憶なのだけど、それがぼんやり立ち現れ、吉村氏の話と重なり、今の僕の中で別の像を結んだような気もした。
が、そんな豊富な内容(が、一編一編はごく簡潔に短く著されていて本もむしろ小さく薄い一冊である。)のなかでも、僕が一番気に入った部分というのは、吉村氏が未だ旅先でも自宅付近でも、町に出て市中のレストランなり、飲み屋さんで飲食されるのを楽しんでらっしゃること。
このエッセイのタイトル「縁起のいい客」もそうした自分のひいきのお店での話の中で出てくる言葉なのだけれど、その一篇のタイトルは何故か「貧乏神」だったりするのだ。
それはつまり、吉村氏が以前からひいきにしていた店は、氏が訪れると、大概そのあとも来客が続き、店からも「縁起のいい客」と謂れ、自らも認めていた。ところが最近は自分の馴染みの店がことごとく閉店していく、まるで自分が貧乏神にでもなったような気がしてくる。新しい店を開拓して歩くがこれもなかなか気に入る店がない。ようやく探し当てた店で馴染みになりつつあるが、決して自分が「貧乏神」であると見破られないようにひっそりと飲んでる、という話。
おそらく吉村氏は「いいお店」で飲んでらしたのだなぁと思ったのである。
えっと、ここからは僕の話ですね。
僕もずっと飲食業に従事していたので「いい店」とは何ぞや、これを常に考えているわけですね。
で、いろんな考え方があるわけだけど、ごく簡潔かつ一番真理に近いと僕が感じたのはもう故人でいっらしゃいますが、雑誌「四季の味」の発起人であり編集長であった森須次郎氏がいい店とは何ぞや、と問われ答えて曰く「安くて、美味くて、すいてる店」、これが良店の究極の定義ではないかと思ってるのです。
が、これには落ちがあり森須氏自身も言っていたそうですが、こんな店は成立しないのです。
すなわち、安くて美味い店には人がつめかけ、とてもじゃないが落ち着いて食べれる店じゃない。
安いのに、すいてるのは、きっと不味いに違いない。
美味くて、しかもゆっくり寛げる店とはすなわち値段のべらぼうに高い店だ、というわけですね。
三つが同時に成立する店はすなわち奇跡の店だと、言うことになるわけです。
なんで、客のほうも自分がどこに重きを置くかで店を選択する。
お店のほうも、これだけ飲食店が増えた中できっちり利益を追求し、かつ個性を出して目立つためにはどこかひとつを突出させて個性化を図るしかない。
味を追求するなら一流の素材とか、一流シェフとかあるいは他で食べれない新規な料理とかね。安さ追求は言わずもがな、すいてる、すなわち居心地を重視するならデザイナーズ系の内装とか、あるいは全席個室仕様なんてのも最近は流行だったり。
おそらく、吉村氏が通われてたようなお店というのはそうした意味では良いお店の条件をバランスよくそこそこ満たしたお店なのだなと思う。
特別な美味しさではないけれど、ほどの良いものを出してくれて、自分の小遣いの範囲で気軽に立ち寄れ、お店の人とも気心がしれてゆっくり寛げる店。そんなお店は今どんどんなくなっていってると思う。
お店の人もそういうお店にしようと思わなくなってるし、客もそういうお店の良さに気づかない。
最近、世の中のいろんな事件で企業の利潤追求の姿勢というのが問われているわけだけど、今マスコミで槍玉にあがっている何人かの企業経営者のモラリティだけの問題じゃないことは、みんな良くわかってるはずで。
安い割には広いマンションも、安く買えて利益の出しやすい株券も、全国どこにでもあり、普通には使い勝手の良いビジネスホテルもどれも消費者が望んで生まれてきた商品であり、望まれて、それを提供してきたのになにが悪いんだと、かの経営者たちは最初のうちはやっぱり思ってしまうんでしょうね。で、叩かれて、叩かれてシュンとしちゃう。
ホント馬鹿みたいだな、奴等も僕達も。
スイマセン、話を広げすぎた。
で、なにがいいたいかというと、世の趨勢でなくなっていく馴染みの店に対して、自分が貧乏神だったんじゃないかと心を痛め、つぶれないようにとせっせと通い、尚且つ自身の居場所を求めて新規開拓も怠りなく、新しい店では目立たぬようにひっそりと飲んでいる吉村氏の謙虚な姿勢こそ、正しい客の姿だなぁ、と。
評判の店だといそいそと出向き、気に入らなければ「あそこは駄目だ」と批評し、気に入ればさも馴染みであるかのように吹聴し、にもかかわらずたまに思い出したときにしか利用しない(スイマセン、これ全部僕のことです!)そんな客でいては遺憾なぁ、実に遺憾!と思った次第。
そして出来うるならば、正しいお客様が馴染みになってくれるような、決して今風ではない正しい飲み屋が自分でも出来たらなぁ、とつくづく思うのでありました。