album風街ろまんより
最近、映画「ロスト・イン・トランスレーション」のTVスポットでも流れてましたね。
はっぴいえんどこそ元祖「J-Pop」で、King Of 純情派といえましょう。
街のはずれの
背伸びした路次を 散歩してたら
汚点だらけの 靄ごしに
起きぬけの露面電車が
海を渡るのが見えたんです
それで僕も
風をあつめて風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を
歌詞カードママ
はっぴいえんどの日本語のロックに対するこだわりはこのアルバムの全編を通じてほぼ外来語さえ使ってないところからも見て取れるわけだけれども、その純日本語で語られている詩の内容は発表された30年前の東京の風俗の中でさえやはり違和感のある言葉遣いであったのではないか。
つまり、僕らにとってこうした日本語がレトロであるのは当たり前なんだけれど、当時の同時代の青年諸氏にとってもほぼ僕らが感じるタイムスリップ感は感じていたはずで、松本隆が書いた詩は、決して当時の若者の使っていた等身大の日本語ではなくあくまで作術的な純日本語であったはずである。
もちろん、僕は同時代で聴いているわけではないんで本当のところはわからないし、
そうだったからといって、なんら彼らの音楽性と、文学性を損なうわけではないのだが。つまり、僕らが割と勘違いしてしまうのは、いまの時代にはっぴいえんどを聴くからレトロな気分になるのではない。、
そうではなくて、当時からそういう意匠をまとって彼らは現れ、それは昭和でも本当に良かったであろう時代、戦前の昭和への懐古趣味を現代的な感覚と結びつけ、都市生活者のなにか寄る辺無い浮遊感覚をデザインしていたのだろうということ。
「風をあつめて」の歌詞は朔太郎的なシュールな夢のような映像の連なりで、実はそれが日常の何気ない場面を描写しているのだが、まあ同時代の海外のロックバンドのように、ドラッグによる内面世界の変容などがグラウンドにあるようでもなく歌詞そのものには驚くほど意味はない。
あるのは気分だけだ。
この意味のないフレーズの羅列にある種の都会的な気分を演出させる方法というのは80年代にはやったシティポップス風歌謡曲の世界で多用された手法ではなかったか。
(例えば、杏里の「キャッツアイ」とかを思い浮かべてください)
しかし、そのとき使用された言葉は純日本語なんてものでは到底ない、意味があってるのかどうかさえわからない、英語、外来語、カタカナ語の羅列であり、それは手法的には似た所があっても志のまるで違うニセモノであった。
皮肉にも松本隆は80年代に作詞家として大いに活躍するわけだが、彼はもう日本語の歌詞をロック、もしくはポップスに載せるということにこだわる必要はなかった。
それは、時代的にも技術的にも当たり前の世界になっていたのだから。
だが依然歌謡曲というフォーマットの中で、日本語にはこだわり続けたのだろう。
彼の歌詞の表層的な気分のよさと、その皮一枚裏側にある日本的な抒情性。
ならでわの、世界ですね。
蛇足
「ロスト・イン・トランスレーション」をいまから渋谷まで観にいってこようかと思います。
後、この間西荻窪の信愛書店で「はっぴいえんど」の写真集みたいなものが売っていた。なんかの音楽雑誌の(レコードコレクターとか、ミュージックマガジンとかその辺)別冊のMOOKだと思うんだけど。それも買ってこようかな。
はっぴいえんどって、なんか春になると聴きたくなるよね。